川越散歩

       江戸時代、川越城は行田、岩槻と並んで江戸城を守る
重要な拠点であった。
川越は小江戸と呼ばれ、今も蔵造りの商店や寺など
古き良き時代を偲ばせる場所が、多く残っている。
名刹喜多院は今は亡き母と参詣によく訪れたところで
ここの境内の出店売っていた、スルメ煮や串団子の味は格別だった。
それに意外と知られていないが、市内の三芳野神社は童謡「とうりゃんせ」発祥の
舞台となったそうである。
菓子屋横丁は何時行っても楽しいし、古い蔵造りの商家は
ギャラリー風にして公開しているところもあるので
覗いて見るのもいい。
さつまいもを使った菓子も名物である。




蔵造りの町並み
時の鐘
菓子屋横丁
飴細工の実演
駄菓子屋の店頭
喜多院
←境内のお地蔵様






↓境内の五百羅漢像
「マ、兄弟一杯いこうぜ」
「オットット、すまねえ」
「どうだい、近頃景気は?」
「だめだね、さっぱりだよ」
「おい、いつまで揉ませるんだよ」
「うーん、もうちょっと・・・」
人生これでいいのかなァ?

「もしもし、俺だけど・・」

携帯電話?
旧川越城址
童謡「とうりゃんせ」の舞台 三芳野神社

通りゃんせ通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ

天神様の細道じゃ

御用の無いもの通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに

お札をおさめに参ります

ちょっと通してくだしゃんせ

行きはよいよい帰りはこわい

こわいながらも通りゃんせ

 







川越について聞き語り
蔵造りの町並み
川越に蔵造りの町並みが形成されるきっかけをなしたのは、
明治26年の大火ですが、それには、次の理由が考えられます。
まず、既に川越にあった大沢家をはじめとする、
蔵造りが焼け残り、耐火建築であることが実証されました。
次に、川越の商人は、江戸時代から荒川の支流である、
新河岸川を利用した舟運によって繁栄し、富の蓄積がありました。
さらに、江戸(東京)に既にあった蔵造り商家が耐火建築として
有効であることを、見聞きしていたと同時に、ある意味で
江戸情緒に対する羨望を大火を機に川越の地に
実現しようとしたのではないかと考えられます。
建物は古き良き時代を偲ばせてくれますが、
あまりにも交通量が多くて、ちょっと騒々しいのが残念です。
時の鐘
時の鐘は、寛永年間(1624年〜43年)に川越城主酒井忠勝が、
城下多賀町(いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。
現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた
川越大火の翌年に再建されたもの。
木造3階建、高さ16.2メートル。寛永の創建からおよそ350年間、
暮らしに欠かせない「時」を告げてきた川越のシンボルです。
現在、1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、
蔵造りの町並みに鐘の音を響かせています。
 
平成8年6月、時の鐘は環境庁主催の残したい「日本の音風景百選」に選ばれました。
菓子屋横丁
菓子屋横丁の歴史は古く、江戸中期に2、3軒の菓子屋があったのがはじまりといいます。
その後、次々に店が増え、日清戦争後、台湾から砂糖が大量に輸入されると、
饅頭、羊羹、アメなどが作られるようになりました。
大正12年(1923)に関東大震災が起こると、被害を受けた神田、浅草、錦糸町の問屋に代わって、
駄菓子を製造供給しました。
昭和の初期には70軒ほどが軒を連ねていました。その後、戦争や生活の変化などによって
、店舗数は減りましたが、昔の横丁の面影を残す菓子屋横丁には、子供から大人まで多くのファンが訪れています。
色とりどりの手作りアメや素朴な生菓子、そして下町風の駄菓子はいつまでも愛され、
菓子屋横丁は今日もにぎわいをみせています
喜多院
星野山無量寿寺喜多院は、平安時代の創建と
伝えられています。
慶長4年に27世を継いだ天海が、家康の厚い信頼
を受けていたことから多いに栄え、寛永15年の火災後の再建の折には、江戸城内の家光誕生の間や,
春日の局化粧の間が移築されました。
正月3日の達磨市は多くの人で賑わいます。
五百羅漢
五百羅漢とは、お釈迦様の入減後、大いに乱れた仏法を正しい姿にもどすべく
インドで五百人の羅漢が結集しました。
その時の一心不乱な求道の姿を現したものといわれています。

 喜多院の五百羅漢は、川越在北田島の百姓で、出家して志誠と名乗った人が天明初期に建てはじめ、
その後慶厳、祐賢らがその遺業をつぎ、約五十年の歳月を費やし完成させたものです。
 羅漢の実数は五三八体を数え、昼寝していたり、ひそひそ話をしていたり、七輪でお湯を沸かしていたり、
お酒を酌み交わしていたり、参った参ったと頭を叩いていたりと、大変庶民的なものが多く見られます。
 また、この中には必ず自分の顔に似た羅漢様がいるといわれております。
 ただ、石の材質の所為か風化が進んでいて、何か対策をとった方がよいのではないか、
と思われる羅漢様もありました
三芳野神社
三芳野神社は、川越城の築城前からあったそうです。
それを太田道灌父子が城を築くと き、敷地に取り込んだもので、
天神さん横の細道がその舞台になりました。
川越城内の子女の間 で歌われていたものが城下に流れ、武士や僧侶、
町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全 国へ広まって行ったということだそうです。  
三芳野神社の天神さまにお詣りするときは、(城内になっても、お詣りの人は絶えなかった)
行くときはいいが、帰るときは携帯品を何度も城の警護の者に調べられたので、
「帰りはこわい」 となったのだそうです。

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このホームページは2009年3月30日から始まる、
NHK朝の連続ドラマ、川越を舞台にした「つばさ」に合わせて、
小生が2001.9.24 撮影し、当時の自分のHPにUPいていたものを
リメイクし再UPしたものである。


2009.1.07up

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