川越散歩 |
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川越について聞き語り |
蔵造りの町並み |
川越に蔵造りの町並みが形成されるきっかけをなしたのは、 明治26年の大火ですが、それには、次の理由が考えられます。 まず、既に川越にあった大沢家をはじめとする、 蔵造りが焼け残り、耐火建築であることが実証されました。 次に、川越の商人は、江戸時代から荒川の支流である、 新河岸川を利用した舟運によって繁栄し、富の蓄積がありました。 さらに、江戸(東京)に既にあった蔵造り商家が耐火建築として 有効であることを、見聞きしていたと同時に、ある意味で 江戸情緒に対する羨望を大火を機に川越の地に 実現しようとしたのではないかと考えられます。 建物は古き良き時代を偲ばせてくれますが、 あまりにも交通量が多くて、ちょっと騒々しいのが残念です。 |
時の鐘 |
時の鐘は、寛永年間(1624年〜43年)に川越城主酒井忠勝が、 城下多賀町(いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。 現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた 川越大火の翌年に再建されたもの。 木造3階建、高さ16.2メートル。寛永の創建からおよそ350年間、 暮らしに欠かせない「時」を告げてきた川越のシンボルです。 現在、1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、 蔵造りの町並みに鐘の音を響かせています。 平成8年6月、時の鐘は環境庁主催の残したい「日本の音風景百選」に選ばれました。 |
菓子屋横丁 |
菓子屋横丁の歴史は古く、江戸中期に2、3軒の菓子屋があったのがはじまりといいます。 その後、次々に店が増え、日清戦争後、台湾から砂糖が大量に輸入されると、 饅頭、羊羹、アメなどが作られるようになりました。 大正12年(1923)に関東大震災が起こると、被害を受けた神田、浅草、錦糸町の問屋に代わって、 駄菓子を製造供給しました。 昭和の初期には70軒ほどが軒を連ねていました。その後、戦争や生活の変化などによって 、店舗数は減りましたが、昔の横丁の面影を残す菓子屋横丁には、子供から大人まで多くのファンが訪れています。 色とりどりの手作りアメや素朴な生菓子、そして下町風の駄菓子はいつまでも愛され、 菓子屋横丁は今日もにぎわいをみせています |
喜多院 |
星野山無量寿寺喜多院は、平安時代の創建と 伝えられています。 慶長4年に27世を継いだ天海が、家康の厚い信頼 を受けていたことから多いに栄え、寛永15年の火災後の再建の折には、江戸城内の家光誕生の間や, 春日の局化粧の間が移築されました。 正月3日の達磨市は多くの人で賑わいます。 |
五百羅漢 |
五百羅漢とは、お釈迦様の入減後、大いに乱れた仏法を正しい姿にもどすべく インドで五百人の羅漢が結集しました。 その時の一心不乱な求道の姿を現したものといわれています。 喜多院の五百羅漢は、川越在北田島の百姓で、出家して志誠と名乗った人が天明初期に建てはじめ、 その後慶厳、祐賢らがその遺業をつぎ、約五十年の歳月を費やし完成させたものです。 羅漢の実数は五三八体を数え、昼寝していたり、ひそひそ話をしていたり、七輪でお湯を沸かしていたり、 お酒を酌み交わしていたり、参った参ったと頭を叩いていたりと、大変庶民的なものが多く見られます。 また、この中には必ず自分の顔に似た羅漢様がいるといわれております。 ただ、石の材質の所為か風化が進んでいて、何か対策をとった方がよいのではないか、 と思われる羅漢様もありました |
三芳野神社 |
三芳野神社は、川越城の築城前からあったそうです。 それを太田道灌父子が城を築くと き、敷地に取り込んだもので、 天神さん横の細道がその舞台になりました。 川越城内の子女の間 で歌われていたものが城下に流れ、武士や僧侶、 町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全 国へ広まって行ったということだそうです。 三芳野神社の天神さまにお詣りするときは、(城内になっても、お詣りの人は絶えなかった) 行くときはいいが、帰るときは携帯品を何度も城の警護の者に調べられたので、 「帰りはこわい」 となったのだそうです。 |
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このホームページは2009年3月30日から始まる、 NHK朝の連続ドラマ、川越を舞台にした「つばさ」に合わせて、 小生が2001.9.24 撮影し、当時の自分のHPにUPいていたものを リメイクし再UPしたものである。 2009.1.07up |
川越へのリンク |