<由緒> 境内献納記念碑によると、 当社は天明八年(1788)に大林寺の境内に勧請されたことに始まる。 これを裏付ける資料としては、同年の棟札が現存し、 その墨書に「奉請八幡大菩薩右左眷属諸神将宮殿造営寄附新田惣村中 天明八年申仲春吉旦 招賢山大林寺世話人新井弥市 (以下略)」とある。 天明年間と云えば、ようやく新田の経済力が充実してきた時期であり、 この造営には独立した鎮守を持ちたいという村人の願いが込められていたことであろう。 更に、慶応三年(1867)には騎乗の八幡大明神像が本殿に納められた。 明治初年に大林寺が廃寺になると、その境内は私有地となり、当社も社地を失う結果となった。 その後、氏子は社地の返還を願い果たせずにいたところ、日露戦争に際して当地出身者に 一人の負傷者も出なかったことから、氏子一同は神の加護に感謝し、これを機に浄財を投じ、 私有地となっていた社地一畝一〇歩を買い戻して、多年の念願を果たした。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
八幡大明神像 ------------------------- ------------------------- 安政7年(1860)建立 流れ尾形狛犬 天神 地蔵 十九夜 |
<参拝メモ> 高柳村の枝村である高柳新田は、元和六年(1620)に新井弥八によって開発されたと 伝える。当社は、この高柳新田の一集落である新田耕地の鎮守として創建され、 社殿は水害を避けるために高さ約二bの盛り土の上に建てられている。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より 利根川も近く、度々水害に見舞われたのであろうか、一段と小高い盛り土の上に鎮座している。 大切な心のよりどころである神社への、村人の篤い思いやりが窺えた。 (駐車スペース有) |