熊谷市・久下神社>埼玉県の神社>古社巡拝録
≪由緒≫ 『吾妻鏡』建久三年(1192)の条に「是武蔵国熊谷久下境相論事也」として、 熊谷直実とその一族である久下直光が将軍源頼朝の前で境界争いをしたことが 記されている。当地は、右の話に登場する久下直光の在所であり、自ら深く三島大神を 崇敬していた久下直光は、その鎮守として地内に二つの三島社を創建した。 これが当社の始まりであると伝えられている。 この二つの三島社のうち、荒川の近くにあったものは外三島、 街道(中仙道)の近くにあったものは内三島と呼ばれていたが、 当社の母体となったのはこのうちの内三島の方である。 江戸時代に新川河岸が開かれると、その付近に多くの人が住むようになり、 明治の初めに新川村が誕生するが、外三島はその村社として祀られるようになった。 一方、内三島の方は中山道に沿って栄えていた旧来の久下村の鎮守であったことから 久下村の村社となり、明治四十三年に地内の無格社一〇社を合祀している。 新川村と久下村は明治二十二年に合併し、その後も二つの三島社共に、 村社として祀られてきた、 しかし大正二年、当社(内三島)は更に村内の神社一四社を合祀し、 社名を久下神社と改めるに至り、この際、外三島は当社に合祀された。 また、この合祀の翌年である同三年、当社は水害を避けるために 堤内にある現在の社地(明治四十三年に合祀した伊奈利神社の境内であった)に移転し、 今に至っている。 「埼玉の神社」埼玉県神社庁発行 より |
------------------------ 昭和16年(1941)建立 炎尾形狛犬 ------------------------- |
≪参拝メモ≫ 久下は、以前は中山道に沿った農業地帯であったが、街道筋では 商工業を営む者も多く、そのなかでも、久下鍛冶の名で広く知られていた 鍛冶職人は、近世武蔵の鍛冶を代表するものの一つに数えられる。 一方新川は、江戸時代に行なわれた荒川本流の河川改修によって 地内に河岸場が設けられると、高瀬舟を利用した物資の集散地として にぎわうようになり、家数でも久下を凌ぐようになった。そのため、大正二年に 外三島社を当社に合祀した時にも、住民の感情を尊重して、 神体を移すだけにとどめ、社殿は旧地に残したという。 しかし、その後、新川は舟運の衰えや洪水によって衰退し、住民も堤内に 移転しまったので、今では住む人もいない。 {埼玉の神社」 埼玉県神社庁より 時は移って、熊谷駅や行田駅にも近く 交通の便もよくなり、現在は急速に市街化が進んでいる。 (駐車スペース有り) |