<由緒> この辺りは、中世に活躍した児玉党の一族、大類氏の治めた地で、 地名の由来も、同氏の土着によるものとされる。 創立の詳細は、別当であった大薬寺の二度にわたる火災により焼失して 不明であるが、貞治二年(1363)足利基氏芳賀某と、当郡苦林野で戦い、 その時僧秀賀という者が、戦死者芳賀氏の臣金井新左エ門他九名の 霊を祀ってことから十社明神と称したという。 明治四十年に愛宕台の愛宕神社、宇神明台の神明社、 大正三年に若林字清水の鹿島神社、字木下の稲荷神社を合祀している。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
稲荷社 弁財天 |
<参拝メモ> 毛呂山町北部、鳩山町との境に鎮座している。 植栽された杉や檜の鬱蒼とした社叢林に囲まれた神社だった。 由緒は不明だが、社西の林の中に、よいお顔立ちした 石の弁天像があった 。 (駐車スペースあり) |