<由緒> 天正十八年(1590)の松山城陥落の際、 落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、 城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。 同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、 原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。 このころ当社も創建されたと伝わるが、 『明細帳』には慶長四年(1599)に再建とあることから、 当初は小さな祠であったのであろう。 その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として 位置づけられたと思われる。 丹波守の後裔に当たる○家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、 この当時の神体であり、神仏分離により○家に預けけられた。 左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、 古くは鎖に繋がれていたという。 雌雄の馬形 「埼玉の神社 埼玉県神社庁」より |
稲荷 仙元 |
<参拝メモ> 当地は兜川上流の山間地にある。 古くは玉川領に属したという。正保から元禄年間(1644−1704)にかけて、 竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立したという。 先に参拝した大塚の諏訪神社北、至近のところに鎮座している。 (駐車スペース有) |