八宮神社由緒>埼玉の神社>古社巡拝

八宮神社由緒

「埼玉の神社 埼玉県神社庁」より



小川町は、外秩父山地の東縁部に位置し、手漉き和紙や板碑に使われる
緑泥片岩の産地として知られている。その中心部である大字小川は、江戸時代には、
江戸と秩父方面、八王子と上州(現群馬県)方面を結ぶ街道の宿駅として発展し、
寛文二年(1662)には毎月一、六の日に市もたつようになった。
当社は、『風土記稿』小川村の項に「八宮神社 村の鎮守なり」と記されているように、
当時の小川村の鎮守であった。
創建については、「風土記稿』に「勧請の年歴は詳ならざれど、元和三年(1617)再建の棟札あれば、
それより前の鎮座なりしことしらる」とあるのが、最も詳しい記録である。
また、当社は、元来は地内北部の日向山に鎮座していたが、享保二年(1717)に現在地に
遷座したと伝えられる。この遷座の理由は明らかでないが天保四年(1833)に建立された
現在の社殿は、日光東照宮全棟の工事を担当した棟梁頭平内大膳守正清の七代目に当たる
林兵庫正尊を大棟梁に、上州花輪の彫工石原常八主信を彫物棟梁にして再建された
立派で大きなものであることから考えると、境内の拡張が目的であったものかと思われる。

当社の祭神は、「五男三女神の八柱の神」と伝えられ、一般に”八宮”の名は八柱の神を
祀ることを意味すると説かれる。しかし、「五男三女神」の具体的な神名については諸説あり、
『明細帳』では「天照大御神御子五柱・月讀尊御子三柱命」、『風土記稿』では「国狭槌尊・
豊酙尊・泥土煮尊・沙槌煮尊・大戸道尊・面足尊・惶根尊」、『比企郡神社誌』では
「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・
天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。
また、当社の本地仏は愛染明王で、現在も内陣に安置されている像高三三㌢の
愛染明王坐像については『風土記稿』にも「今本地愛染を置り」との記述がある。


愛染明王像

八宮神社は、現在、小川町に四社、嵐山町に四社、滑川町に一社と、比企郡に限って存在し、
しかもほぼ鎌倉街道に沿って集中的に分布している。
また、八宮神社の分布している地域の東側には淡洲神社、南側には黒石神社が
いずれも集中的に分布しており、この付近は神社の奉斎とその祭祀圏の関係について
極めて興味のある地域である。
しかし、これらの神社の分布の持つ意味は未だに解明されておらず、八宮神社の分布についても、
郷土史家の大塚仲太郎が昭和五年に神社の分布は『和名抄』所蔵の郷名と関係があり
淡洲神社の分布地は醎瀬郷(からせごう)、八宮神社の分布地は多笛郷に比定されるという説を、
昭和十三年には八宮神社の分布は奈良梨から下小川に居住する千野氏や諏訪氏といった
一族と関係があるという説を『埼玉史談』に発表している程度であり、この二説もまだ定説とは言い難い。

「八宮」の文字は、現在どの神社でも「やみや」と読んでいるが、『風土記稿』にはすべて
「ヤキュウ」と振り仮名を付しているところから、元来は「やきゅう」と読んでいたことが推定される。
このことは、福島東雄の『武蔵誌』で、当社の社名が「八弓明神社」となっていることからからも
裏付けられ、寄居町鷹巣の矢弓神社や東松山市の箭弓稲荷神社との関係も考えられる。
なお、「八宮」を「やみや」と読むようにになった時期は明治維新直後と推定されるが、
読みを変更した理由は定かではない。

戻る

inserted by FC2 system