<由緒> 近世の国学者は、我が国の古典によりわが国柄を明らかにし、 明治維新に多大な影響を及ぼしたのであり、またそれが一般市民から興り 農村にまで浸透したことは、草莽(そうもう・民間の意)の国学者を育てた。 当社の創祀者藤田七郎衛門もその一人で、文政三年に生まれ、 生来学問好きで、農耕の余暇読書に専念し、国典・漢学に通じ 殊に本居宣長に私淑し、ついに本居宣長の門に入り、更に幕末に 平田家門人帳に名を連ねている。 彼の国学に対する思いは厚く、嘉永三年、宣長翁五十年祭の折に 自分の山林を開いて、秋津彦美豆桜根大人命(あきつひこみつのさくらねのうしのみこと)(本居宣長)を主神として源義公命(みなもとのぎこうのみこと)(徳川光圀)を合祀した小社を建てたのが始まりで、ここを本居山と通称するようになった。 社号は宣長翁の神名にちなむ。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
参道脇に咲いていた花 |