<由緒> 当社は平将門の落武者を祀ったものと伝えられる。 江戸末期の歴史学者杉本林志の書いた「狭山栞」によると 承平天慶年間の何れの戦いかわからないが将門の落武者が 大勢この地に来て戦力を消耗したのか立往生したという。 そしていずれも生々しい血刀をひっさげていたという。 里人はこれらの戦死者を手厚く葬り、その血刀と鎧を埋めて その上に祠を建て血刀明神としてまつる。 血刀は「千刀」とも書き後に嘉字に当てるため「千門」ともいう。 なおこの地の小字は「チカタ」といっている。 昭和五十二年二月十四日 氏子総代 森田半十郎 「神社由緒書き」より |
<参拝メモ> 単立神社なのであろう。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」には記載されていない。 千門と書いて「ちかた」と読む。 社号額は八幡宮となっているが、由緒書きを見ると何か曰くのある神社のようにも思える。 元の名が血刀明神などと、恐ろしげな社名だが、さっぱりとした明るい境内だった。 (駐車スペース有) |